着物の収納

月の輝きさん世が世なら・・・にTBしました

徳川十八代宗家德川恒孝(つねなり)さんのお宅には ずっと開けずにあった長棹の中に
皇女和宮様の着物があって 桐のタンスに入っていたから虫一つついてなかったらしいです
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恐るべし桐の効果!すばらしい・・・

写真は和宮さま本人だそうです










それにしても この德川恒孝さんってお方は 幼少の頃に おいたをするとお手伝いさんに
「なり様、そんなことをすると城が落ちますよ」と叱られたなどと言う話は さすがにお殿さま!
現世にあっても なお「城が落ちますよ」と言われるなり様もだけど 
そう言う叱り方をするお手伝いさんも 代々お仕えしてきた人なんだろうかなぁ~などと
かなり想像は膨らむのです




ご存知のように、幕末動乱期に公武合体の切り札として政略結婚をさせられた宮様です。

和宮は仁孝天皇と橋本経子と言う高級女官との間に、1846年に生まれました。生まれる直前に父帝は亡くなり、腹違いの兄が孝明天皇となっておりました。和宮より16歳年上です。 孝明天皇は、和宮を妹と言うよりは、まるで我が子のように可愛がっていたようです。
兄弟姉妹は多かったのですが、幼くして次々と亡くなっておりました。

和宮は少し足が不自由でしたが、6歳の時に、有栖川宮熾仁(たるひと)親王との間に婚約が整いました。この親王殿下は写真で見ますと、武士のような精悍な顔立ちをしています。
和宮15歳の時、幕府から朝廷に対して、「将軍家茂へ和宮の降嫁を請う」、と言う執拗な申し出がありました。天下争乱と危うくなった幕府体制を縁組で乗り越えようと言う訳です。

これには、孝明天皇も難色を示しました。和宮もイヤがりました。しかし、天皇も度重なる圧力に抗しきれず、又、和宮も兄の苦しい立場を思い、ついに承諾するに至りました。
和宮も可哀想ですが、実は、将軍家茂にも婚約者が居たのです。勿論、これは白紙に戻されました。こちらの姫君だって和宮同様に辛い立場です。

1861年、お輿入れの長い行列(50km)は、中仙道を江戸へ下って行きました。
東海道ではなく中仙道にしたのは、この縁組の反対派が、和宮奪回を企んでいると言う噂もあり、より危険性の少ない中仙道にしたのです。

空前絶後、総費用は今のお金にして150億円。絵はありますが、写真を見た事はありません。家茂も和宮も病弱だったらしいですが、同い年の二人には夫婦愛が芽生え仲睦まじく、とりわけ、家茂は宮を理解し大事にしたようです。

「余が一生をかけて宮をお守りいたす」、とお約束した事でしょう。政略結婚であるがゆえに、余計に心が添う、と言うのは分りますね。満州国皇帝の弟夫妻や、朝鮮王朝皇太子夫妻もそうでした。ここに人間の救いを見るような気がします。

元へ戻って、当時の情勢が情勢ですから、将軍とて江戸城に安穏として居られる分けもなく、江戸から京大阪へと何度も往復したのです。
初めて義兄たる天皇に拝謁するべく京へ赴いたのは、新婚間もない17歳の時です。江戸から海路を取りましたが、強風の為、下田に寄港して上陸、家茂は「海善寺」に宿を取っています。近くに代官の陣屋などがあった場所です。

この時期に将軍と天皇が会う、と言う事の重責を負って、お食事も喉を通らなかったのでは無いでしょうか。将軍の上洛は200年以上も無かった事でした。
それが再び、三たびと重なって、家茂は大阪城で急死してしまったのです。21歳。 
和宮と暮らしたのは実質で2年くらい、子供には恵まれませんでした。



以後、和宮は静寛院と称する事となります。そして、この5ヶ月余り後、兄の孝明天皇も急死します。36歳、天然痘と言われていますが、将軍と同じく、心身の疲労に耐えられなかったのだろうと思います。風にも当たらずにお育ちになったのでしょうから。
こうして、16歳の明治天皇が即位します。ここで和宮が降嫁した意味は無くなったと言えます。

その悲しみも癒えぬままに、1868年正月3日、官軍と幕府軍の雌雄を決したとも言える「鳥羽伏見の戦い」、が勃発します。幕府軍は数の上では遥かに上回っていましたが、完敗でした。 こうして、官軍の錦の御旗は益々輝く事になります。

静寛院(和宮)は、徳川家存続の嘆願状を書いて、何度も朝廷に送ります。皮肉な事に、官軍の大総督は、かっての婚約者、有栖川宮熾仁親王でした。
年配の方なら多分ご存知の、♪宮さん宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな、と言う歌の宮さんとは、錦の御旗を立てて行軍する熾仁親王の事です。

この時、江戸城にはもう一人の未亡人がいました。
和宮には姑に当たる天璋院です。和宮とは10歳しか違いません。彼女は24歳の時に夫の家定を失っておりました。天璋院は、家定が体も弱く、更に言葉もハッキリしないと言う、かなり問題のある将軍だったので、「しっかり者の御台さまを」、と言う事で、九州の島津家に白羽の矢が当たり、紆余曲折を経て家定夫人になった方です。 彼女もお気の毒な女性です。
和宮が輿入れした時には、武家と公家の奥女中たちの間で、しょっちゅう揉め事があったようです。 目に見えるようですね。

この天璋院も官軍に対して幾度も嘆願状を書きます。徳川家の存続と、最後の将軍となった徳川慶喜の生命の保障を求めました。俗に言えば、嫁と姑が協力して家を守る事に必死だったのです。

1868年10月、明治天皇は江戸城に入り皇居となさいました。
江戸も東京と改められました。
静寛院は翌年、京都に帰っていますが、数年後には又、東京に来ています。そして病を得て箱根で療養中に亡くなったとされています。32歳でした。ご遺体は遺言の通り、芝増上寺の家茂の側に葬られました。

和宮に関しては、替え玉説があり、それが小説やドラマにもなりました。
しかし、私は本物だったと信じる事にします。いかにお顔が知られていなかったとは言え、全ての女官の口にカギをかける事など不可能だったろうと思います。それに、たとえ替え玉であって、夫の家茂に打ち明けていたとしても、事態は同じように流れて行った事でしょう。

昭和34年に発掘された時の調査では、和宮の足が悪かったと言う証拠は得られなかったそうですが、顔立ちは正に、当時の貴族のものだったと言う事です。

埴生の宿さんより抜粋させていただきました
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by fuuki-no-botan | 2004-11-11 11:54 | 着物